島田 雄太 (しまだ ゆうた) 

( 男子 )

島田 雄太
スタイル | LHB / Left arm medium pace |
クラブ暦 | 東京工科大学クリケットクラブ(1999/00年~2002/03年) アドレクリケットクラブ(2002/03~) |
役割・肩書 | 全国大会実行委員会委員(1999年~2009年) 全国大会実行委員会 委員長(2002年) アドレクリケットクラブ キャプテン(2009/10年) |
生年月日 | 1979年8月27日 |
出身地 | 東京 |
ハイエスト | ? |
ベストボーリング | 5-22(2008 J1C Paddy's) |
中学・高校時代とワンゲル部で山登りをしていた島田氏は大学に入ったら球技をやってみたいと考えていた。そのようななかで勧誘されたのが東京工科大学クリケットクラブ。サークルの雰囲気が楽しく、練習したらうまくなると言われて頑張ってみようと入部を決めました。
運動をバリバリとやっていたわけではない島田氏はバッティングが苦手。
1年生のときにMAXの粟津氏にレフトアームボーラーは有利だよと熱心に言われ、ボーラーを頑張ろうと決意。投げれば投げるほどボーリングが楽しくなっていった。その努力は報われず学生時代は3番手・4番手ボーラー扱い。当時はワイドも多く試合で投げれない時もたくさんあった。しかし、投げているときはとても楽しくて、ウィケットをとれた瞬間やチームの勝利に貢献できているのがクリケットにやみつきになった最大の理由かも。
1999年冬頃にクリケット全国大会として高円宮杯を開催しようという動きがあり、寺師氏に誘われPTC(Prince Takamadonomiya Cup)スタッフへ参加。始めは右も左もわからない状況でしたが、議事録の書き方など基本的なことからイベントを企画するための考え方までいろいろなことを教わりました。クリケット全国大会は実現されませんでしたが、その後、2001年ALL Japan Sixersとして全国大会を開催することができました。2002年にはALL Japan Sixers実行委員長として尽力を尽くしました。
アドレを知ったきっかけは中澤氏。
PTCスタッフとしての活動を通して中澤氏と知り合った雄太はその後中澤氏の誘いでアドレのイベントに参加するようになりました。その頃のアドレはイベント満載の時期でありいろんなイベントに顔を出していました。特に記憶に残っているのは4年生のときに参加した花見でした。
アドレクリケットクラブ入団後は、クリケットを長く続けたいのであればボーリングをいちから練習しませんか?という中澤氏の誘いを受け、ボーリングの修正に着手。マンツーマンのトレーニングの日々が続きます。一時的には学生時代より力が劣りましたが、その後はもちまえの努力で見る見ると成長。アドレのオープニングボーラーの座を勝ち取ります。その後、現在に至るまでアドレの主軸ボーラーとしてアドレを支え続けます。2009/10年シーズンにはキャプテンも勤め名実アドレを代表するプレーヤーに。今後はベテランプレーヤーとして後輩の手本に、そして次世代のアドレの育成の頑張りが期待される。
運動をバリバリとやっていたわけではない島田氏はバッティングが苦手。
1年生のときにMAXの粟津氏にレフトアームボーラーは有利だよと熱心に言われ、ボーラーを頑張ろうと決意。投げれば投げるほどボーリングが楽しくなっていった。その努力は報われず学生時代は3番手・4番手ボーラー扱い。当時はワイドも多く試合で投げれない時もたくさんあった。しかし、投げているときはとても楽しくて、ウィケットをとれた瞬間やチームの勝利に貢献できているのがクリケットにやみつきになった最大の理由かも。
1999年冬頃にクリケット全国大会として高円宮杯を開催しようという動きがあり、寺師氏に誘われPTC(Prince Takamadonomiya Cup)スタッフへ参加。始めは右も左もわからない状況でしたが、議事録の書き方など基本的なことからイベントを企画するための考え方までいろいろなことを教わりました。クリケット全国大会は実現されませんでしたが、その後、2001年ALL Japan Sixersとして全国大会を開催することができました。2002年にはALL Japan Sixers実行委員長として尽力を尽くしました。
アドレを知ったきっかけは中澤氏。
PTCスタッフとしての活動を通して中澤氏と知り合った雄太はその後中澤氏の誘いでアドレのイベントに参加するようになりました。その頃のアドレはイベント満載の時期でありいろんなイベントに顔を出していました。特に記憶に残っているのは4年生のときに参加した花見でした。
アドレクリケットクラブ入団後は、クリケットを長く続けたいのであればボーリングをいちから練習しませんか?という中澤氏の誘いを受け、ボーリングの修正に着手。マンツーマンのトレーニングの日々が続きます。一時的には学生時代より力が劣りましたが、その後はもちまえの努力で見る見ると成長。アドレのオープニングボーラーの座を勝ち取ります。その後、現在に至るまでアドレの主軸ボーラーとしてアドレを支え続けます。2009/10年シーズンにはキャプテンも勤め名実アドレを代表するプレーヤーに。今後はベテランプレーヤーとして後輩の手本に、そして次世代のアドレの育成の頑張りが期待される。